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諏訪大社上社前宮周辺

逃げ若で注目の諏訪頼重の供養塔もある諏訪大社上社前宮周辺を探索

先日書いた『諏訪が舞台のアニメ『逃げ上手の若君』が放映開始 良い機会だから地元の歴史を勉強しよう』という記事の続き。

前回の記事でも書いたように、『逃げ若』は子供たちが歴史に興味を持つ良い機会になると考えています。
またちょうど夏休みということもあり、自由研究のテーマとしてもピッタリだと思っています。

という話を、生徒にもしているのですが、「何をどうすればいいか分からない」というので、もう少し具体的に見どころを解説した方が良いのかなと思いました。
そんなわけで今回は、少し掘り下げた、とは言え、子どもたちが勉強する余地をのこしたくらいのディープさでお送りいたします。

そうそう、これも一応。
インターネット上に書いたものは様々な地域の方に読まれるものではありますが、そうは言っても、諏訪市で学習塾を営んでいるのだから一番に読んでもらいたいのは地元の子どもたち。
この記事は地元、それもあおば塾がある諏訪市の湖南地区やその周辺地区(諏訪市豊田、諏訪市中洲、岡谷市湊など)の子どもに向けて書いていきます。
もちろん、他のエリアの逃げ若ファンが読んでも面白い内容にはなっているとは思いますが、読者のメインを地元生徒に据えていますので、所々で、地元民にしか分からない表現等があるかもしれません。
また、諏訪地方の信仰や文化にかかわる記述には『逃げ若』と直接関係のないものもありますが、知っていれば物語をより楽しめる内容だと思いますのでご容赦ください。

「逃げ若」をもっと楽しみたければ、まずは諏訪大社へ行こう

諏訪はこれまでも様々なアニメや漫画、ゲーム等の舞台となり、聖地巡礼に訪れるファンも大勢います。
最近(でもないか…)では「君の名は。」の影響で立石公園に大勢のファンがやって来ています。
しかし、今回の『逃げ若』はこれまでのものとはちょっと違います。
通常、アニメやマンガの聖地と言われる場合、それは物語の舞台を提供することを意味しますが、『逃げ若』はそれだけにとどまりません。
『逃げ若』の場合、諏訪を物語の舞台として使うのみならず、その時代の諏訪の文化や諏訪信仰といった諏訪のエッセンスが随所に散りばめられています。
そのため、物語が進み、若君たちが京都や鎌倉など、諏訪を飛び出して活躍するようになってからも、物語から「諏訪」を感じ取れるのです。

そんな、この物語に欠かせない諏訪のエッセンスをさらに凝縮したような場所が諏訪大社です。
いやもう、ここ『逃げ若』のアニメやマンガが無くても、遥か昔らからマジモンの聖地ですからね。
ですから、この宗教上、文化上の本物の聖地について知ることが物語をさらに楽しむことにつながるわけです。

諏訪西中学校・湖南小学校から諏訪大社本宮に向かう

前述の通り、この記事は地元生徒に向けて書いています。
そこで、生徒たちが『逃げ若」を自由研究のテーマにしたという体で、地元の子どもたちが通う湖南小学校・諏訪西中学校から自転車で前宮に向かいます。
Google先生によると岡谷茅野線を使うのが最短コースらしいのですが、交通量も多く小学生が使うには危なそうなので、一本山側の道をすすみます。

夏期講習も始まっており、日中は出掛けられないので早朝にチャリンコ飛ばして取材してきました。
流石はさわやか信州。最高気温が30度を超える日が続きますが、朝は涼しい。生徒の皆さんも、自由研究で散策するなら朝がおススメです。

諏訪七石の一つ『蛙石』

スタート地点の諏訪西中学から諏訪大社の本宮に向けて道なりに歩いて行くと、道路の右側に代わった石が見えてきます。

蛙石

諏訪七石の一つ「蛙石」

どうです。カエルのようでしょ?
見た目がカエルそっくりなので、「蛙石」といいます。
ええ。そのままです。

この石を含め、諏訪エリアにある7つの大きな石や変わった形の石をまとめて諏訪の七石といいます。

諏訪の七石

  • 小袋石(前宮東の山中 茅野市高部)
  • 御座石(御座石神社境内 茅野市本町東)
  • 児玉石(児玉石神社境内 諏訪市湯の脇)
  • 御沓石(諏訪大社本宮境内 諏訪市中洲宮山)
  • 硯石(諏訪大社本宮境内 諏訪市中洲宮山)
  • 蛙石(諏訪市湖南大熊 [諏訪大社本宮境内との説も])
  • 亀石(高島公園内 諏訪市高島

御柱祭などもその一端だと思いますが、諏訪では昔から大きな岩や樹木などを祀る自然信仰があり、今でも諏訪の文化の中に根強く残っています。
上記の石が物語に登場することは今後もおそらくはありませんが、この自然信仰は諏訪の文化を語るうえで外せない要素です。
そのため、これを理解したうえで逃げ若に触れれば、より物語の深みを味わえると思います。

諏訪大社 上社 本宮

諏訪大社は古い神社です。神道が形作られるよりずっと前から続く信仰がもとになっているので、そのため他の神社と色々と違いがあります。
分かりやすい違いが祭神を安置する「本殿」の有無です。
実は諏訪大社にはこの本殿がありません。

「逃げ若」の作中でも語られますが、諏訪頼重をはじめとする大祝(おおほうり:諏訪大社の神官の最高位)は現人神とされていました。
これは明治維新を経て神官の世襲制度が廃止されるまで続き、諏訪明神の依り代として諏訪社の頂点にありました。
つまり、かつては諏訪大社には「生き神」様がいた、神体となる大祝がいたため、祭神を安置する「本殿」がないわけです。

ちなみに現在は本宮にある神体山を本殿と見立てています。このあたりは時代によってさまざまな解釈がされているようです。

波除鳥居

変な名前でしょ。こんな場所にあって波除って。
一体、何の波? え? まさか?

波除鳥居

諏訪大社 本宮境内の「波除鳥居」

そうです。この波除鳥居のいうところの「波」とは諏訪湖の波。
かつてはこの辺りまで諏訪湖だったそうです。
アニメでも諏訪神社の割と近くに諏訪湖があるように描かれているのはこのためです。
安芸の厳島神社のような景観だったのでしょうか。
冬にはこの辺りから下社に向かって御神渡りが出来ていたのかもしれません。
いや、発想が逆かな。諏訪の宗教観からすると、まずは御神渡りがあり、その行きつく先に神社が出来たのかもしれません。

近年は出来ても可愛らしい御神渡りばかりですが、子どもの頃に観た御神渡りはとても大きく、反り立った氷塊を見上げた記憶があります。
時行もそんな豪快な御神渡りを観たのでしょうか。

明神湯

アニメの逃げ若にも温泉回がありましたが、諏訪エリアにはあちこちで温泉が湧き出ています。
そして、これも自然信仰の表れでしょうか、その自然の恵みを感謝するように、源泉付近には祠や小さなお社が建てられていることも多いです。
街のいたるところに温泉があるくらいですから、もちろん諏訪大社の境内にもあります。それがこの明神湯。
諏訪大明神こと建御名方(タケミナカタ)が愛用した温泉ということなので、頼重や時行ももしかすると入浴したかもしれませんね。

明神湯

諏訪大社 本宮境内にある「明神湯」

この温泉にはちょっとした伝説があります。
建御名方の妃である八坂刀売(ヤサカトメ)もこの温泉を愛用していました。
そんな彼女が諏訪湖の対岸にある下社に移る際に、この温泉を綿に湿らせ持って行ったそうです。
その際、湿らせていた湯の雫がポタポタと数滴落ちてしまいました。
すると、雫の落ちた地から温泉が湧き出てきました。これが上諏訪温泉と下諏訪温泉です。

そんなわけで、諏訪は温泉地として昔から有名でした。
現在も各地区に公衆浴場がありますし、温泉が引かれていて、毎日自宅で温泉に入浴できるご家庭も多いでしょう。
考えてみれば、これだけ自然の恵みの豊かな土地も珍しいのではないでしょうか。
山の恵みに、諏訪湖の恵み、そしてこの温泉。
「海こそなけれ物(もの)さわに万(よろ)ず足(た)らわぬ事ぞなき」と県歌信濃の国で歌いますが、諏訪の地はまさにこの通りです。

諏訪へ落ち延びた時行は、この地で英気を養い再び天下を目指すわけですが、この豊かな地でノンビリと子供らしく暮らさせてあげたかったような気もします。

神長官 守矢史料館

諏訪大社の本宮から前宮に向かう道の途中、神長官 守矢史料館があります。
さきに「自然信仰は諏訪の文化を語るうえで外せない要素」と書きましたが、ここはまさにそういった諏訪の文化や信仰の重要なエッセンスが詰まった場所といえます。

守矢史料館は平成3年に開館しました。
そして、この一風変わった佇まいの建物は藤森照信教授の設計です。
諏訪の建造物の特徴や中世の信仰のイメージを取り入れつつ、新たな発想でこの史料館を建築したそうです。
資料館付近にはこのほかにも「高杉庵」や「空飛ぶ泥船」、「高部公民館」など藤森照信教授が設計した建築物がありますので、これらを見て回るのも楽しいかもしれません。

神長官 守矢史料館

神長官 守矢史料館

館内では鎌倉時代より守矢家で伝えてきた守矢文書が保管・公開されています。
守矢家は中世より諏訪神社上社の神官の一つである「神長官(じんちょうかん)」を明治時代まで勤めてきた家柄です。
守矢文書は県宝155点・茅野市指定文化財50点を含む総点数1618点の古文書で、諏訪神社の祭礼に関する古文書で、中世の信濃国の状況を克明に記録したものがあります。

都合の良いことに、このような企画展も開催中のようですので、是非足を運んでみてもらいたいです。
南北朝時代の守矢文書-北条時行とその時代-

御頭御社宮司総社

守矢史料館は守矢家の敷地内に建っていますが、この敷地内にあるのは資料館だけではありません。
諏訪の信仰に大きく関わる御頭御社宮司総社もその一つです。
地元では「ミシャグジ」と言われる神様がいますが、この神様を祀る「御社宮神」の総本社がこの御頭御社宮司総社です。
とても古い神様で、東日本広域で信仰されてきました。「逃げ若」の物語的には、雫に関係の深い神様ですね。

諏訪の信仰に非常に関わりの深い神様なのですが、ここで書き始めるとキリがない上に、正しいことを書ける自信もないので、こういうお社があるということだけ書いておきます。
色々知識として知ろうとするのも大事ですが、ここに関しては現地に来て風景から感じ取ってもらいたいです。

御頭御社宮司総社

神長官 守矢史料館の先にある「御頭御社宮司総社」

 

また、御頭御社宮司総社から右へ進むと大祝の墓所もあります。

大祝墓所

大祝墓所

諏訪大社 上社 前宮

いよいよ目的地の諏訪大社上社の前宮に到着です。
境内を散策する前にちょっと注意事項。
この神社、かなり特殊な神社で境内を一般道がはしっています。
参拝路だと思って歩いているその道は、地元民の生活の道だったりするわけです。
ですから、特に車には気をつけて歩きましょう。

前宮

『逃げ若』で諏訪大社として登場した「前宮」

さて、本題にもどります。アニメや原作の漫画でも何度かこのシーンが登場しましたよね。
アニメでは正面の鳥居が朱色の、おそらくは木製の鳥居となっていますが、後ろにある建物のなどの位置関係はこの構図の通りです。
ですから、あの作品で登場する「諏訪大社」とは基本的に上社の前宮のことを言っているのだと思います。
ちなみに、アニメで時行らの日常シーンとして描かれることの多いこの一帯を神原(ごうばら)といい、かつての諏訪神社の祭祀の中心でした。

神殿(ごうどの)

さて、上記した通り、アニメや原作マンガで登場する諏訪大社が前宮であり、時行らが前宮近辺で生活していた可能性が高いわけですが、それは歴史的な経緯からも想像できます。

神殿(ごうどの)

神殿(ごうどの)跡

上記の鳥居の右側に前宮の社務所がありますが、この付近にかつては神殿(ごうどの)と呼ばれる大祝の居館がありました。

神殿(ごうどの)

大祝の居館であった神殿(ごうどの)跡

写真の案内板にもあるように、神殿は中世までは大祝の居館でした。ここを中心に様々な建物があり、祭事が執り行われていたのです。
ですので、おそらく「逃げ若」の諏訪頼重も大祝であったわけですからここで暮らしていたはずですし、その保護下にいた時行もこの周辺で暮らしていたことでしょう。

この写真、早朝に撮りに行ってきたのですが、夏休みということもあり、早朝にも関わらず子供たちの元気な声が聞こえてきました。
逃若党の面々もこの一帯で遊びまわっていたんでしょうかね?

鹿食免

神殿があったとされる場所には、現在は前宮の社務所があります。
ここにあるお守りなどの中に他の神社では見かけない、ちょっと変わったものがあります。
それがこの「鹿食免」です。
全国のあちこちに諏訪神社がありますが、「諏訪神社が全国に広がった理由にこのお札があるのではないか?」とも言われています。

鹿食免

鹿食免

さて、鹿食免、ザックリと説明してしまえば、その名の通り「鹿を食べても良いよ」という免状です。
「諏訪の勘文」というものがあります。それは「慈悲と殺生は両立する」という教えであり、これを狩猟・肉食の免罪符「鹿食免(かじきめん)」として発行してきました。
仏教が伝来すると殺生は罪悪であるとして、狩猟や肉食が禁忌となりました。しかし、これらを禁じられては長く厳しい諏訪の冬を乗り越えることができません。そこで、考え出されたのがこの神符「鹿食免」だと言われています。
これを神社から授かったものは生きるために狩猟をし、鹿肉を食べることが許されました。そのため諏訪の人々は厳寒の冬であっても自然からの恵み享受し、生活することができたのです。

鹿食免と諏訪の勘文

鹿食免と諏訪の勘文

で、これがその諏訪の勘文です。

要するに、「動物らが成仏できるように、あえて私ら人間が喰ってやろう。私らの血肉となって人と同化することによって、あいつらも成仏できるんだ。だから、肉食はむしろ善行なんだ。」
っと、言っているわけです。
まぁ、ご都合主義と言えばそうかもしれませんが、合理的ではあるが神仏を蔑ろにはしない、信仰と現実の生活とを絶妙のバランスで守った名文だと私は思います。
それに「逃げ若」の諏訪頼重なら言いそうなことだと思いませんか?
あの物語の諏訪頼重のキャラクターはこういうところから形作られたのかもしれませんね。

さて、そんなありがたいお札の存在を知った全国の武士の皆さんの反応

そんな素敵なものがあるのか!? だったらウチにも諏訪神社つくちゃうよ。

とは言っていないでしょうが、鹿食免自体は武士たちにもありがたいものだったそうです。
と言うのも武士たちは、たしなみとして鷹狩などの狩猟を行いますし、生き死ににかかわる仕事をしているだけに信仰心の篤い者が多かったためです。
そして、所領に諏訪神社を建てて神事として鷹狩を行う武将が現れるなど、全国に諏訪神社が広がっていきました。
…なんて話も諏訪にはあるのですが、チョッと眉唾ものです。

実際のところは霧ヶ峰の御射山で奉納された武術の競技で際立って鮮やかな諏訪武士の技に感じ入った諸将が、「これこそは諏訪明神のご加護によるものであろう、それにあやかりたい。」っと、御分神を領国に勧請したのが全国に諏訪神社の多い理由だろうと言われています。
ただ、いずれにしても諏訪神社が全国に広がったのは武士が活躍する世になってからのこと。
信仰は信仰として尊びながらも、実生活に合わせていく合理性と、それを認める寛容さがなんとも武士らしいと思います。

そう言えば、今期のアニメは「逃げ若」の他にも話題作が目白押しですが、そんな中に「しかのこのこのここしたんたん」というギャグアニメがありましたよね。
鹿の子ねぇ~ 諏訪大社の氏子的には鹿は喰わねばならんと思うわけです。
そんなわけで、「逃げ若」にはこの「しかのこのこのここしたんたん」には勝ってもらいたいものですな。

十間廊

上記の鳥居をくぐった先、階段の途中にこの十間廊があります。
アニメの逃げ若でも、何度かこの十間廊らしき建物が出てきましたが、ここでは諏訪神社上社において、御柱祭と並んで重要な祭礼である「御頭祭」が行われます。

十間廊

十間廊

「御頭祭」は旧暦3月の酉の日に行われていたので、別名「酉の祭り」ともいわれています。
これは現在の御頭祭は4月15日に、上社前宮(茅野市)で行われている祭礼で、中世においては信濃各地の豪族に当番が割り当てられて執行されていました。
この当番を御頭といい、当番の豪族(氏子)が責任をもってその祭事をつとめます。

御頭祭は諏訪大社の固有の神事です。
時代によってその姿が変わっていますが、現在は本宮から前宮まで約2キロを御霊代を神輿に乗せて向かう一日遷座の神事となっています。
神輿が前宮到着後は、この十間廊で五穀豊穣を祈ります。

酉の祭(御頭祭)

酉の祭(御頭祭)

御頭祭ではちょっと特殊な神饌がお供えされます。
この写真では小さくて分かりにくいですかね? アップしてみましょう。

酉の祭(御頭祭)

御頭祭では特殊な神饌がお供えされる

鹿のはく製です。
かつてははく製ではなく、本物の猪や鹿たちが捧げられていたそうです。数も多く、なんと鹿だけでも75頭。
ちなみにこの鹿たちの中に必ず1頭、耳が割けた鹿がいたらしく、これは「高野の耳裂鹿」といって諏訪の7不思議の一つとされています。
アニメ「逃げ若」で小笠原貞宗が「鹿を一頭献上する」と言って、巫女の耳を射抜いたシーンがありましたが、この言い伝えを引き合いにしたものです。

さて、現代では生きた動物たちが生贄に捧げられるという様子は想像し難いかもしれませんが、こう考えてください。
お祭りともなれば、祭事の後にみなで食事くらいしますよね。これはそのための食材でもあるのです。
実際、この神事の時に鹿の肉などを食べるていたようです。
現代なら直ぐに食べられる「食材」となった肉が手に入りますが、かつては生き物を肉にするところから始めねばなりません。
そう考えると普段何気なく食べている肉に対しても感謝や畏怖の念が湧いてきます。

このお祭りの詳しい様子は前述の守矢資料館で展示されていますので、興味のある方は行ってみてください。

 

諏訪頼重供養塔

逃げ若でも登場する諏訪頼重の供養塔です。
あまり書きすぎるとネタバレになるので止めておきますが、物語でも重要なキャラクターですが、史実でも大活躍された人物です。

諏訪頼重供養塔

諏訪頼重の供養塔

これは以前の記事にも書きましたが、「諏訪頼重」という名前はややこしいことに、諏訪の歴史には2人登場します。
一人は逃げ若でも登場する諏訪頼重。もう一人は武田晴信(信玄)と争い、甲府にて自刃した諏訪頼重(後に武田勝頼の母となる諏訪御料人[由布姫・湖衣姫]の父親)。
武田信玄絡みのNHKの大河ドラマが2回放映されていることもあり、一般的には後者の頼重の方が有名です。そのため、戦国時代の頼重の慰霊碑だと誤解する人も多いのですが、この慰霊碑は逃げ若の諏訪頼重のものです。

参拝経路には特に案内もなく、一般道の脇にポツンとあるので、どこにあるのか分からなかったという人も多いようです。
なにせ、地元民でもその存在を知らなかったという人は少なくないですから。

諏訪頼重供養塔

写真中央の建物が供養塔

こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが、遠くからだと、パッと見、ゴミステーションのようです…
どちらの「諏訪頼重」もちょっと扱いが悪い気がしますよね。
逃げ若で見直されると良いなと密かに思っています。

諏訪大社上社 前宮の本殿

本宮の件で書きましたが、諏訪大社には大祝という現人神がいましたので、祭神を安置する「本殿」がありませんでした。
「ありませんでした。」と書いたのは、この通り、現在は前宮に限り本殿があるからです。
この本殿は、昭和7年の伊勢神宮の遷座祭後のお社の用材が移築されたものだそうです。

諏訪大社上社前宮本殿

諏訪大社上社 前宮の本殿

じつは、長い間、前宮は諏訪大社の摂末社のトップの位置付けでした。
前述の神殿(ごうどの)の案内板にも書かれていましたが、文明15年(1483年)の同族の内輪争いによって神域が穢されたとして前宮は急速に寂れていくのでした。
そして祭事の中心も本宮へと移っていきます。現在は前宮と本宮、秋宮と春宮がそれぞれ同格として扱われていますが、かつての前宮と本宮はこのような関係にはありません。まさに、前のお宮。
しかし、元々、前宮があるこの地で全ての上社の祭祀が行われていたこともあり「御頭祭」など重要な神事は、本宮から出向いて執り行われるわけです。
そのことからも諏訪信仰の発祥の地として重要な位置にあることがうかがえます。

ちなみに、前宮が現在のように本宮と同格の扱いとなるのは明治以後のことになります。

諏訪って「逃げ若」抜きでも結構面白いでしょ?

普段、何気なく暮らしている街をさっと1時間ほど歩いただけでも、これだけの史跡等があります。
もちろん、他の地区だってブラっと1時間も歩けば諏訪は面白スポットだらけです。
こんなにも面白い街はそうそうないと私は思います。

大学入試を控えた高校生の進路指導などをすると「とにかく都会に行きたい」「田舎は嫌だ」という声を聞きます。
将来のことを考えれば上京するというのは良い選択肢だと思いますし、是非頑張って欲しいです。
ただ、地元諏訪がツマラナイ町だなんて思わないで欲しいし、自分たちを育んでくれた地元の歴史や文化の深みを知らずに、「田舎」と切り捨てて欲しくないのです。
「逃げ若」は子供たちが地元諏訪の面白さを発見する良い機会になるのではないかと期待しています。
自信満々に田舎自慢を出来る人になって欲しいと思います。

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